1942年(昭和17年)6月5日、旧日本軍はミッドウエー海戦で主力空母4隻を失い敗北。
この戦いの結果、前年12月8日の真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦後、破竹のごとく進撃を続けていた日本軍の侵攻がストップし、日本側は次第に守勢に立たされることになります。
では、この太平洋戦争の転換点と言われるミッドウエー海戦とは、「どのようなものだったのか?何が勝敗を分けたのか?」を中心に見ていきたいと思います。
ミッドウエー海戦の背景
ミッドウエー海戦は、ミッドウエー島の占領を計画した当時の日本軍と、それを阻止しようとしたアメリカ軍との間に起こった戦いの中で発生した海戦ですが、ではなぜ日本側はこの島に向けて空母部隊を中心とする艦隊を送ったのかについて見ていきます。
さかのぼること前年の1941年12月8日、日本陸軍によるマレー半島上陸作戦の開始で太平洋戦争が開戦。それに遅れること約2時間後に、日本海軍空母部隊から発進した航空機によるハワイ真珠湾攻撃が開始されました。
このハワイ真珠湾の戦いで、日本軍はアメリカ軍の主力戦艦4隻を撃沈し、他のアメリカ艦艇にも大きな損害を与えて、約半年間アメリカ軍の太平洋での行動を制約します。
「アメリカ軍の主力戦艦を撃滅して、しばらくの間、米太平洋艦隊の行動を不能とする」という日本軍の当初の目的は、この真珠湾攻撃で達成されましたが、あわよくば攻撃対象にしていたアメリカ軍の空母は、当時ハワイに在泊していませんでした。
この真珠湾攻撃とそれに続くマレー海戦での航空攻撃による戦艦撃沈は、それまで航空機攻撃による戦艦撃沈は不可能とされた常識を覆し、世界を驚かせます。そして太平洋での戦いは戦艦同士の砲撃戦から、空母を飛び立った航空機同士の戦いへと変わっていきました。
そして飛び立った航空機の攻撃目標は、敵の空母を中心としたものになっていきます。
1942年初頭から春にかけて、日本軍は電撃的といえる破竹の勢いで占領地を拡大していきました。しかし、真珠湾攻撃の災厄を免れたアメリカ軍の空母部隊により、攻撃しては、さっと引き上げるヒット・エンドラン戦法が各地で繰り返えされ、日本軍を悩ませます。
青と水色が日本軍の占領地域(1942年6月)
引用元:https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=284345
さらに同年4月には、日本近海に進出したアメリカ軍空母から爆撃機が発進し、東京など主要都市を初めて空襲。被害自体は小さなものでしたが、日本側は衝撃を受けます。
ここに日本軍は、今度は敵空母を叩く必要性を痛感し、さらにアメリカ本土への空襲計画に加え、オーストラリアとの連絡線を遮断する一環として、その前進基地であるミッドウエー島の占領を計画します。
米軍の暗号解読
日本軍の大規模な攻撃を察知したアメリカは、日本軍の暗号解読を試みていました。その結果、「6月の第1週に攻撃目標”AF”」という内容をつかみます。
しかし、攻撃目標の「”AF”がどこなのか?」ということが、どうしても分かりませんでした。
そこで、ハワイ島など次に日本軍が攻撃してくる可能性のある島に、それぞれ内容の異なる偽情報を流して、日本側の反応を見ることにしました。そしてミッドウエー島には「飲料水が不足しつつある」との偽情報を流したところ、日本軍の「”AF”は飲料水が不足しているようである」との通信を傍受し、攻撃目標”AF”がミッドウエー島であることをつかんだのです。
ミッドウエー島
引用元:https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=932592
日本軍の戦力優位
しかし、6月の第1週にミッドウエー島の攻撃が行われるとアメリカ軍は把握しただけで、確実な対抗策はありませんでした。
じっさいに戦力的に見ても、当時の日本軍は量的な優位があり、アメリカ軍がまともに戦えば敗北する可能性がありました。
日本軍の作戦計画
このような中、日本軍はミッドウエー島攻撃の計画を立てます。作戦は大きく3つの段階に分かれていました。
1942年5月27日、日本軍の空母を中心とする部隊が広島県柱島から、厳重な無線封鎖を行いつつ出撃。翌日にはミッドウエー島占領部隊の輸送船団がサイパン島を出港します。
さらに29日には山本五十六直属の主力艦隊も柱島を出港し、一路ミッドウエー島に向かいます。
日本軍は参加艦艇370隻、航空機1000機、上陸部隊10万という圧倒的兵力で、誰もが勝利を信じて疑いませんでした。
同じころ、アメリカ軍も行動を開始。
5月28日に空母2隻を基幹とする部隊が真珠湾を出港。前月の珊瑚海海戦で日本軍の攻撃により中破した空母ヨークタウンの緊急修理を完了後、30日にこの部隊も真珠湾を出港し、一路ミッドウエー島に向かい来襲する日本軍を待ち構えました。
指揮官の2つの誤判断
ミッドウエーでの戦いは、1942年(昭和17年)日本時間の6月5日午前1時半、日本軍空母から発進したミッドウエー島空襲部隊による攻撃で始まります。
日本軍の空襲により、炎上するミッドウエー基地
引用元: https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=803333
ミッドウエー島のレーダーにより日本軍の襲来を察知したアメリカ軍は、ミッドウエー島に駐機してあった航空機を全機空中退避させ、戦闘機には日本軍空襲部隊の迎撃に当たらせます。
しかし、日本軍は零戦(零式艦上戦闘機)により、アメリカ軍の迎撃機を撃退。空襲を成功させます。
同じころ、空中退避させたアメリカ軍爆撃機が日本艦隊上空に到達、空襲を行うも被害はなく、艦隊上空を守る零戦に撃退されます。
その間にミッドウエー島空襲部隊の指揮官から、日本軍空母に宛てて「第二次攻撃の必要アリ」との電文が届きます。
空母部隊の司令官である南雲長官は、「敵空母は近海にいない」と判断し、出撃前に上層部から「敵空母出現に備えて、半数は魚雷装備からの兵装転換を行ってはならない」との厳命を破るかたちで、艦船攻撃用の魚雷や爆弾を、すべて陸用爆弾に兵装転換する指示を出してしまいます。これが最初の誤判断となりました。
確かに、この時点でまだ敵空母がいないのであれば、上陸部隊の損害を最小限に抑えるために、十分な空爆を行うという判断は妥当なのですが、敵空母の存否が分からないという判断に迷う中で、「半数は魚雷装備の兵装転換を行ってはならない」という厳命を破ってしまいます。
その兵装転換を行っている最中に、予想していなかった敵艦隊出現の報告を味方偵察機より受けます。敵艦隊が現れたということは空母もいると判断され、予想だにしない敵艦隊の出現に司令官をはじめ、現場は混乱します。
陸用爆弾から再び艦船攻撃用の魚雷と爆弾に兵装転換を行うなか、貴重な時間を費やし、さらにミッドウエー島空襲部隊が日本軍の空母上空に戻ってきました。
日本軍の空母飛龍にいた山口司令官から、「直ちに敵空母に向けて攻撃機を発進すべし」との意見具申が信号で送られてくるも、艦隊司令官である南雲長官はこれを無視する形で、空襲部隊の収容を優先してしまいます。
これが第2の誤判断となり、収容に時間を費やし、敵空母への攻撃に向けて発進前の燃料満載、戦闘機などの機銃弾満載の航空機を空母艦内に長時間留めた危険極まりない状態にすることに。
零戦のパイロットだった酒井 三郎氏によれば、航空機の機数にもよりますが、空母に着艦するのを完了させるより、発艦を完了させる方が数分の1の時間で済むとのこと。それを「ミッドウエー島空襲部隊を早くおろしてやりたい」との人情論が先行し、どの航空機も燃料が残り少ないとはいえ、合理性を欠く判断をしてしまいました。
もしこのとき、先に敵空母への攻撃機を発進させていれば、敵空母に大きな打撃を与えた可能性が高く、仮に味方空母が攻撃にあったとしても、ミッドウエー空襲後の燃料や機銃弾などがほぼカラの状態の航空機しか艦内に残っておらず、大きな火災を起こして沈没に至るまでにはならなかったと推測されます。
着艦に時間を要して、未だ発艦できない間に、ついにアメリカ軍の空母から発進した攻撃機が日本の空母上空に迫りました。
しかし、最初に襲来したアメリカ軍の50機近い雷撃機(魚雷を搭載した攻撃機)は、空母や他の艦船の対空砲、上空を守る零戦隊によって、ほぼ全機撃墜。魚雷は一本も味方空母に命中しませんでした。
ところが、低空を飛ぶアメリカ軍の雷撃機を、上空を守っていた零戦隊が追いましていたため、空母上空に隙ができ、そこを後から来たアメリカ軍の急降下爆撃機が逆落としに爆弾を投下。
たちまち日本軍空母に命中して、発艦準備を整えた燃料満タン機銃弾満載の航空機が誘爆を起こし、艦内にも大火災が発生。数分の間に3隻の空母が使用不能となり、その後この3隻の空母は沈没してしまいます。
アメリカ軍の攻撃で炎上する空母飛龍
引用元:https://withnews.jp/article/f0211206000qq000000000000000W0f710101qq000023956A
この時点で主力空母4隻のうち、3隻が使用不能となり、残った1隻の空母飛龍が反撃に出ます。この空母飛龍から飛び立った攻撃隊が、アメリカ軍空母ヨークタウン1隻を撃沈。
何とかアメリカ軍のワンサイドという屈辱は免れたものの、残った空母飛龍も、再度アメリカ軍の反撃にあい撃沈されました。
この海戦での敗北を受け、ミッドウエー島上陸作戦は中止。太平洋戦争開戦後、初めての大規模な敗北となりました。
こうして、事前にアメリカ軍に察知され、待ち受けられた中でも、当時最高潮に達していたと言われる日本軍パイロットの技量の高さや操艦(船の操作)の巧みさによって、幾度となくアメリカ軍の攻撃を撃退したものの、大きな誤判断によって、最後の最後で敗北を喫して、多くのベテランパイロットや整備員を失った日本軍。
たとえ暗号を解読され、待ち受けられていた中だったとしても、その後の判断さえ誤らなければ、最悪でも引き分けに持っていけたのではないでしょうか。
太平洋戦争の転換点
ミッドウエー海戦での敗北で、日本軍の本格的な攻勢は止まり、以降は徐々に守勢に立たされることになります。
ただ、よく言われる「ここから日本軍が敗北していった」わけではありません。確かに戦争の転換点となったものの、アメリカ軍もかろうじて勝ったというのが正直なところであり、事実ミッドウエー海戦の敗北後も戦力的にはまだ日本軍の方が優位でした。
その日本軍の優位が徐々に崩れていくのが、同年8月から始まったガダルカナル島での戦い以降であり、大局を見通せない司令官や指揮官の誤判断、陸海軍で協力体制が取れていないことも加わり、加速度的にその戦力をすり潰して、日本を劣勢に立たせることになっていきます。
このミッドウエー海戦の敗北の要因は、アメリカ側の暗号解読、索敵の不十分さ、日本軍の艦船がレーダーを装備していなかったことなど、いくつか指摘されます。
確かにレーダーを装備していたり、索敵が充分に行われていれば、もっと早く敵空母を発見し、判断の誤りを防げたかもしれません。
しかし結局は「今の時点で敵の空母はいない」という指揮官の思い込みと、戦闘手順を誤ったことが直接的な敗北要因であり、そもそも空母戦に関してあまり詳しくはない南雲長官を、真珠湾攻撃に続く空母艦隊の司令官であり続けさせた人事にこそ一番の問題があったと言えるでしょう。
約80年前の出来事とはいえ、驕りや非合理的な思い込みをはじめ「ここぞ!」というところでの判断の誤りは、いつの時代でも戒めたいものですし、何より適材適所の重要性を強く感じさせる歴史の出来事です。
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